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2007年9月

2007年9月27日 (木)

万博の夜、電停の朝_070927

Bさんとは3年生も同じクラスになった。修学旅行は万博で、なんとかいっしょに回れないものかと思っていたけれど、うまく行かず、広場の途中ですれ違う程度だった。でも、その夜の宿で、「うるさくて眠れんのよ。ここにおっていい?」といって、Bさんがいつもの友人といっしょにぼくらの部屋に入ってきて押入れに隠れた。ぼくは級長だか班長だかでマネジメントする責任があったけど、もちろんうれしかったので、いいよとしかいわなかった。
すると、すぐに男の先生が血相を変えて入ってきて彼女たちを追い出した。入るところを目撃していたらしい。
そのあと、担任の女教師がやってきてぼくの監督責任をなじり、ぼくの眼鏡をとって「歯をくいしばりなさい」といった。ちょっと意外だったけれど往復ビンタをくらった。でもこの先生のことは好きだったので、教育的にしかられている、と素直に受け入れた。彼女たちを入れないように阻止するべきだったとも考えなかったが、先生たちがあわてた理由もよくわかった。そのことについてだけ申し訳ないと思った。

翌日、Bさんがぼくのところに謝りにきた。ぼくは彼女にまったく何も悪いものは感じていなかったので、気にしなくていいとはいったものの、彼女はとても気にしているようすだった。それからなんとなく疎遠になったような気がする。

ある放課後の掃除のときに、彼女の友人がぼくのところにやってきて「Bさんが、あたしのこと好きかって聞いている」と伝言してきた。それが何を意味するのか、都合のいいことを考えなかったわけではないし、その可能性は高かったと思う。いずれにしてもうれしかったのに、同時に見透かされた気がして恥ずかしく、「はいはい好きですよ。すっごく好き」と返した。嘘ではなくてそのとおりだったけれど、言い方に嘘くささをにじませないと恥ずかしくて仕方がなかった。どう思ったんだろう、その後、それに関しては何の反応もなかった。

友人との交際のことを聞いたのは、そのあとすぐだったような気もする。

高校に入って電車通学をするようになり、たびたび遅刻しそうになって1つ先の電停まで走ることがよくあった。そして、そういうときは眼鏡が必要なかったので、眼鏡が基本的に嫌いだったぼくはしばしばはずしていた。
電停の前の交差点で信号が変わるのを待っていたら、「山科くん」という、Bさんの声がした。うすぼんやりとした人影しか見えないのに、笑顔でこっちを向いているのがなぜかわかった。「あたし、わかる?」。もちろん、わかるに決まっているじゃないか。声が出ないのでうなずいた。眼鏡を取り出そうかどうしようか迷って気もそぞろだったのできっときょとんとした顔をしていたに違いない。
うなずいたのに、わざわざBさんは名前を名乗って、ひとことふたこと話しかけてくれた。ぼくは遅刻しそうなのが気になるのと、そのまったく逆の気持ちでどぎまぎして、うめくような返事しかできなかったような気がする。Bさんは笑顔のまま、多分、またそのうち、というような意味のことをいって、彼女の方向へ去っていった。ぼくは複雑な後悔を感じながら、もう学校が違うのでどうしようもない、という子どもらしい判断をして、彼女の後姿らしいもやもやを眺めた。それがBさんの存在に触れた最後だ。住所は知っていた。今でも一部を覚えているけれど、暑中見舞いも年賀状も出さなかった。多分、当時は出すべきでないと考えたのだろう。中学の同窓会はなかったか、出席しなかった。

今になって、はじめて思った。電停で会ったときに、呼び止めてでも、真面目に好きだと伝えればよかった。

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キスと3つの穴_070927

そういうわけで、思い返すと成否はともかくぼくにはBさんと特別な関係になれるチャンスと環境があったはずだ。問題は、その特別な関係、少し成長したインタラクティブな関係のことをぼくがまったく思いつかなかったという点にある。毛ほども。
告白という言葉やラブレター、デート、恋愛などの言葉とその意味は知っているのに、それを自分や自分の状況と結びつけて考えることがいっさいなかった。それで、Bさんの記憶は「初恋」には入らない。
もちろん、思いついたからといって、うまく行ったとは限らない。その後の別のケースでぼくはひどい立ち往生をしたので、さらに幼いこの時代はもっとひどいことになっていたかもしれない。
一時的に頭の中を完全に支配するような経験は、高校生になってからだった。そうなって、初めて告白という行為のことを考えた。中学生時代はまだそこに至るエネルギーが足りなかった。
もしBさんと同じ高校に行っていたらもっと違う展開があった可能性もあるけれど、Bさんは頭は悪くなかったはずなのに成績は悪かったらしい。ぼくは軽い気持ちで受験先をBさんにあわせようかとさえ考えたこともある。でも、結局、私立の女子高に通っていたので、ぼくが受験先を変更しても、むだだった。

とはいえ、はっきりと女性を意識して、愛おしい気持ちを抱いたのはBさんが最初。遠くから見ているだけで気持ちよく、話しているときは体のどこかでアドレナリンが噴き出していた。それは小学生のころとはまったく違う感触だった。

そのころ、Bさんとキスをする、かなりリアルな夢を見た。じつはその夢を見たことで、ぼくにとってBさんが特別な存在になっていることに気づいたのだった。長い間、その夢は頭から離れず、現実の記憶との区別もつけにくかった。踏み出す足が1歩違えば、現実化していたのではないかという気がするほど。
一度何かの冗談の流れで顔を触ったことがあり、それが唯一の意識的な肉体的接触だった。ほんのちょっとだけだったのに感触がしばらく残って困った。”男子と女子の肉体的接触に対して多少の免疫をつける目的で教育的に行われる”「フォークダンス」でペアになったことがあるのかどうか、記憶にない。2年間同じクラスだったからありそうなものだが。ステップを踏むのに夢中で気もそぞろだったのだろうか。
Bさんとフォークダンス以外で手をつなぐようなことがあったら、おそらくひとたまりもなく、それ以降の意識を支配されただろうと思う。そういうことにならなかったのは、教育的にはよかったといえるかもしれない。

そういえば、別のところに書いたような気もするが、女性の下腹部には3つの穴があることを初めて教えてくれたのはBさんだった。ぼくが無邪気にいろいろと質問すると、1つ1つ思いを巡らすように考えながらていねいに答えてくれた。その質問は具体的には思い出せないし、思い出したとしても、たぶん書くわけにはいかない。そのときのQ&Aで女性の体について独特の、しかも相当でたらめなイメージが形成され、これも長い間頭から離れなかった。

こうしてBさんのことを掘り下げながら思い出していくのは、それだけで幸せ感がある。こうした気持ちのいい記憶は、ユングが考える夢と似たような性質を持っているようだ。またいつか、そのへんをよぎることがあったら、そこのところも少し考えてみよう。

視覚的な記憶にあるBさん。身長は高いほうで痩せてはいないがスリムで均整のとれたスタイル。何かの運動部で活躍していたような気がする。髪は長くつややかで、まとめたり流したり、たびたびヘアスタイルが変わった。つねににこやかで、目の周囲を柔らかい皮下脂肪が取り囲んでいる。当時、額に皺ができたことを気にしていたから、皺ができやすい体質だったのかもしれない。今の年齢だと笑い皺がたくさんあるかもしれないが、それはそれで年齢にあって美しく見えるのではないかという気がする。何もかも肯定的に捉えてしまう。

中学3年生のある時期にBさんのことを考えるのをやめることにした。当時、ぼくが比較的仲良く遊んでいた友人がBさんと「交際」しているということを知ったから。一時的に頭が混乱したけれど、いずれにしても「交際」ってどういうこと?と考えているレベルだったのと、仲のいい友人とバッティングするのは避けたい気持ちでそっぽを向くことに決めたのだった。「交際」の意味については、それこそBさんに教えてもらえばよかったかもしれない。
悲しかったような記憶もあるけれど、それほどでもない。ともかく、当時は深く考えることができなかったから。

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初恋前夜_070927

Bさんの思い出はまったく欠けることなく、幸せの味がする。
最初は、隣の席にいる、ちょっとかわいくておもしろい女の子、程度の印象だった。でも、ぼくに対する優しさが他の人と違っていた。多分、気持ちが互いに交流していたのだと思う。このときにもうすこし、ぼくが成熟していれば、今はBさんと暮らしていたかもしれない。そのくらい気持ちの相性がよかった。でも、インタラクティブな男女の交流のことまで考えることができなかった。隣の席にいて、しゃべっているとなんだかうれしい、それ以上のことを思いつきもしなかった。

ただ、思い起こすとそういうレベルの低い状態から上にあがるホールドのようなものはあった。
Bさんはたいていぼくの近くの席に座っていた。ときどき席替えがあり、バラバラになるがぼくは目が悪いので最初から前の席に設定してもらった。Bさんは目が特別悪いわけでもないのに、やはり誰かと席を代わってもらって前のほうに座っていた。ぼくはそれを偶然と思い、純朴に喜んでいたけれど、偶然じゃなかったのかもしれない。
放課後はBさんとよく雑談をした。ぼくは自分の席に座り、Bさんはその前に立つか座るかして何かをしゃべっていた光景を思い出す。ぼくは今でもそうだけれど、会合では、強い必要がないかぎり、自分から誰かに近づいてしゃべることをしない。だから、偶然ぼくの近くにいる人か、ぼくのところに来てくれる人とだけ仲良くなる。よくそういうわがままな社交性でこれまでもってきたものだと思うが、そうだったのだから仕方がない。もしかすると、Bさんがわざわざぼくのところに来て、しゃべっていたのかもしれない。
ぼくは美術部だった。何か芸術系のことをしたくて、とりあえず美術部しか思いつくところがなかったから。その美術部にいつのまにかBさんがその友人と入ってきていた。絵に特別関心があるようには思えなかったけれど、いっしょに粘土をこねたり、絵を描いたり、あるいはただしゃべったり。ぼくにはBさんが近くにいるほうがどちらかというと自然な状態だったのでとくに疑問はもたなかったけれど。

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2007年9月26日 (水)

愛おしい方言_070926

コンビニでなんとなく森永ミルクキャラメルを買った。
小さなころ好きで、長い間飽き飽きしていて、最近またときどき買っている。
「おいしさ」の原風景の1つ。

このおいしさと、中学2年のクラスでいっしょだったBさんの目の下の小さなふくらみを見て感じた気持ちとに共通感がある。
彼女の笑う目がすごく好きだった。笑うと目の周囲の皮下脂肪が寄ってぷっくりとふくらむ、というだけのことなんだが、ぞくぞくするような愛おしさがあった。それで、声もしゃべり方も好きだった。
少なくとも、ぼくにはいつも優しかった。ぼくは活舌が悪く、そのうえ、話す内容と使う言葉が周囲とはちょっとずれていたせいで、聞き返されることが多かった。聞き返されるのはいいほうで、たいていは無視された。どうせ無視されるから、会話で自分の発言をちゃんと伝えようとはあまり思わなかった。しかし、Bさんは不思議にすべてを1回で聴き取っているようだった。
複数でしゃべっているときに、ぼくの発言を誰かが聞き返すと(聞き返すということは無視していないということだ)、多くはBさんがぼくの発言を繰り返してくれた。それが何度か続いたあるとき、「あたし、通訳しとるみたいやね」とBさんがいった。心か頭のどこかで熱いものがあふれる感じがあった。
昔の記憶はたいてい現在ぼくが使っている言葉に変換されてしまっているけれど、Bさんの言葉だけは方言の形のまま、そのときに感じた愛おしさ付きで思い出される。

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2007年9月24日 (月)

黄昏時には永遠が見える_070924

中学生になるとトカゲもミミズもおたまじゃくしもカブトエビも追わなくなった。理由は思い出せないが、たぶん、それ以上に気になることが増えたのだろう。
放課後、帰りながらなぜかある地点以上に家に近づくあたりから得体のしれない焦燥感を感じる。それが何なのかはっきりとはわからずじまいだったけれど、じつは小学校のころからたまに夕方になると感じる何かで、中学校に入ってふと気づいたときにはかなり強いものになっていた。
いったいどっちを向けばいいのかわからない、どこかが痒いような気がするのにどこが痒いのかわからない、焦っているのに何を焦っているのかがわからない。気持ちだけが浮ついて浮ついてしかたがない。しかし、この浮つきを押さえたところに、おいしい感じが見えるような気がしていた。多少つらい面はあるけれど、けっして嫌な感じではなかった。
黄昏時には永遠が見えるというのはこのことかとずっと思っていた。そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。永遠に答えはわからない。
ただ、いずれにしても、その焦燥感は当時ははっきり意識できなかった恋愛に根ざす焦燥感だったらしい。半透明の膜がかかったような、ピントのはっきりしない焦燥感を感じていた背景が、今ならだいたい見当がつくような気がする。
中学1年生のときは、同じクラスの友だちと何とか友だちになることで手いっぱいで、3人の仲間を得た。1年間は彼らと交流するだけで完結していた。奇妙な焦燥感を強く感じるようになったのは、2年生になって彼らとは若干疎遠になり、同じクラスの1人の女の子に注目しはじめたころからだったに違いない。

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2007年9月23日 (日)

「おいしい感じ」の一般化_070923

「おいしい感じ」は幸せを考える上ではかなり重要な概念になりそう。
ただ、この言葉を使うのにちょっとためらいがある。「おいしい」には、生理的な感触とセルフィッシュなイメージが付随しているから。
80年代だったか、東京周辺だけだったかもしれないが、西武デパートのキャッチコピーで「おいしい生活」という言葉が町中にあふれていたことがあった。糸井茂里の仕事で、たぶん、その後いろいろなメディアに言葉上の影響を与えたと思う。
この「おいしい」は、ある種の業界では隠語的によく用いられていた言葉だった。意味はだいたい「楽でいろいろ得をしてうれしい」「かんたんな仕事だがギャラが破格にいい」「こちらにとってきわめて好都合な」あたりで、イメージ的には即物的、自己中心的で、相手や周囲への配慮に欠け、尊大でやや下品、という感じを持っていたので、ぼくは使わない言葉だった。特に、仕事に対してはよく「おいしい仕事」という表現が出てきたがそれを聞くたびにやる気が萎えた。ギャラが高いことは当然よいことなのだが、その捉え方がいやらしく感じた。もっと悪いのは「おいしい女」。自分にとって都合のいい女という意味でさまざまな含みを持っているが、これはむしろ男性どうしの会話より(もともとその手の話をする友人には恵まれなかった)女性自身が自分のことをそういうのが嫌だった。
しかし、今考えてみると、もともと幸せというのは最終的に自己中心的な問題であり、それぞれにセルフィッシュに幸せを追求する中で折り合いをつけて、共存できる幸せを見つけていくものだろうから、出発地点の感覚を表す言葉としてはセルフィッシュなニュアンスも含めて、「おいしい」という言葉がふさわしいと思い直した。

そういう意味を含めて、おいしい瞬間にはいくつか鮮明なものがある。
小学校では、通常のペーパーテストで平均が97点を超えたとき、放課後複数のグループで交換しあうのが流行っていた「(わたしが)好きな人ベスト5」で、自分のベスト1の子のベスト1が自分だったとき(まるで回文。実質的に告白しあっているようなものなのに、そこは田舎のガキどうし。特別なことは何もなかった)、学校で応募したり、雑誌に投稿したりした作文が入選したとき(中学時代を含めてしばしばあった)、小学館の学年誌の巻末添削テストを送ってポイントがたまり、ねらった賞品のポイントに達したとき、トカゲの卵を見つけたとき、田んぼでおたまじゃくしの中にカブトエビを見つけたとき、今日これから好きなテレビ番組があることを思い出したとき、おもしろそうな漫画本を貸し本屋で借りて家へ持って帰るとき、たこ焼き・カニの冷製・するめ・姫貝を食べるとき、etc.。
成長していくと、その種類は減り、逆に1つ1つのインパクトが大きくなった。

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おいしい感じ_070923

平均が97点を超えたときのおいしい感じに2,3のヒントがある。
中学校にあがって以降はやや事態が複雑になるので数学以外は100点を取るのが難しくなった。英語、国語は90点を超えるのがやっと、必ず、どこかで食い違いや取りこぼしが出る。社会や理科は暗記していればいいんだろうが、量が多くなると一晩で暗記できる量や詳しさには限度がある。
あと少しで完全、という感覚に迫れたのはそういうわけで小学校の5,6年生のころだけだった。特殊な時期の特殊な経験というべきだろう。何かもう少し、こうしたことに一歩踏み込む気があれば、パーフェクトはできないわけではない、といつも思っていた。そして、それはその後も、ぼくの基本的なオプティミズムの根底を形成するベースの感覚となった。
今でも、何をやるにつけ、このおいしい感じを目指して歩き始める。そこまでは悪くないが、多くの場合、2、3割の地点で気持ちがトーンダウンしてしまうので社会全体の平均よりも悪い結果のまま中断してしまう。
ぼくの人生は、死屍累々としたかじりかけのプロジェクトで埋め尽くされ、そのうち、古い地層のものについては、かじりかけであったことも忘れてしまう。そういう人並みはずれて半端なものの中で、いくつかのことが生き残っている。しかし、現実の時間はそれを自転車操業的に維持するだけで精一杯で、目指しているはずのおいしい感じにはなかなか至らない。
この数年は、先を見ず、おいしい感じを目指さずにことに挑めるようにアプローチを変更しようとしている。そのほうが安楽で、逆に結果も今よりは多少よくなるはずだから。しかし、その変更の試みそのものがおいしい感じに至らない。

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2007年9月21日 (金)

点数の味_070921

テストの点数を意識しはじめたのは小学校5年生のころ。まとまったテストがあり、採点されたものがまとめて返ってきた。
100点満点で70点台だとちょっと悪い感じ、80点台はまあまあ、90点台は良、95点を超えるとそれなりに満足、100点だとすごくうれしい。そんなふうに点数で色がついていた。
平均点を計算すると多分最初は80点台だったと思う。平均で90点を超えるといいなと思った記憶がある。実際にはその後平均で90点を超えるのはよくあったと思う。
平均で97点を超えるとおいしい感じがした。別に何かごほうびがもらえたわけではないんだけど。平均100点というのはたしかなかったと思う。
ちばてつやの漫画で、あかねちゃんだったか、公開テストで全科目満点の答案を書きながらあえて名前を書かずに無効になったというストーリーを読んで「もったいない」と思った記憶もある。

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2007年9月20日 (木)

テストの前_070920

テストの前の状態は小学校5年生のころから運転免許取得のころまでずっと同じスタイル。
基本的に勉強はしたくない。しかし勉強しなくちゃいけないと思っている。ずっとぐずぐずしている。ぐずぐずしている間にいろんな楽しいことを思いつく。とりあえずその楽しさに熱中する。満足。またぐずぐず。ところが、何かがきっかけでパチンとそのバランスが崩れて急に勉強をはじめる。
通常、テストの前日、もうそろそろ眠くなるころ。勉強が始まると終わるまで止まらない。深夜になることもあればそのまま朝までということも多かった。

計画的に少しずつ勉強することができないという体質はその後もいたるところで自分自身を苦しめた。大学受験などはその最たるものだった。自信があったわけではなかったのに受験に失敗したときの失意感の大きさには自分でも驚いた。その後も、いろいろなことに失望して、東京の予備校に通い始めてから、パチンとはじけるものがあった。それからの半年あまりの間、ぼくの人生の中ではもっとも長い勉強へのトランス状態が続いた。毎日シュアに予習して授業は隅々までよくわかった。あれはあれでいいものだった。
テストの前の日と、仕事の締め切りの前は状態的にはよく似ている。テストも仕事(を仕上げること)も嫌いじゃないのに、そのために勉強を始めたり、仕事を積み上げていったりするのが難しい。これは一種の業のようなものでじつはとても苦しい。

最近のぽっぺんの走りぶりを見ていると適切な刺激でもっとよくなる可能性がある。短く頻繁に更新するスタイルに変えてみよう。

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2007年9月18日 (火)

テストのために勉強するのは恥ずかしいことだ_070918

すいかずらさんのコメントを根城にすると、基本的にペーパーテストに対する原始的な好意は達成感という切り口で多くの人と共有できるのかもしれない。先生に花丸をつけてもらって喜んでいた時期にさかのぼれば、最初からテストが苦手という人はそれほど多くないだろう。すると、「テスト」「試験」に多少なりとも嫌悪感の入った語感が付きはじめ、あるレベルに達して拒絶感を引き起こすことがあるのは、どういう契機があったのかという別の興味も出てくる。おそらく人類の数の分だけケースがあるのだろう。
ぼく自身は、ある程度できる自信のあるテストと、まったく自信のない、あるいは準備をまったくしていないテストとのあいだにあまり違いはなかった。歯がまったく立たない問題は、それはそれで楽しむことができた。
ちょっとした勘違いから、交通教則の勉強をまったくしていない状態で仮免用のペーパーテストを受けてしまったことがある。合格点はそれほどハードルが高くなかったはずだが、問題なく不合格だった。教習所の係員が困ったような顔をして「もっと勉強してから受けたほうがいいですよ、お金がもったいないから」といったときに、はじめてこのテストが交通教則を暗記して受けるべきであることと、有料であることに気が付いた。ちょっとショックだったので周囲を観察したが、どうやらそれがわかっていなかったのはぼくだけだったようだ。このときのテストでも、ぼくはもやもやした問題の世界を楽しむことができた。
テストが好き、というのは、パズルに取り組んだり、ゲームや運動で記録や勝敗を競ったりするのと、多分まったく同じ。ただ、「テストの点数」の持つ深刻な意味がさまざまな混乱を生むのだろう。
なぜそういう価値体系が形成されるのか、それ自体1つの大きな謎だが、小学校から少なくとも高校時代まではペーパーテストにおける得点力が最重要能力とされていたような気がする。テストの点さえよければ、どんなにばかっぽく見えても一目置かれた。
そして、そういう価値体系の反作用として、テストを意識することを嫌う傾向もあった。テストのために勉強することは恥ずかしいことだ、という羞恥心のような意識が高校を卒業するまでどこかのベースにあったと思う。この羞恥心は本末転倒感から来るのかもしれない。本来、テストのために勉強するのではなく、勉強の成果を見るためにテストをするのだ。大学生以降に出会うテストは、自動車教習所での体験を含めて、本来の意味でのテストだったと思う。それが高校生のころまでは、テストの点数に対する価値体系の異常さから、本末転倒したままだったような気がする。

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2007年9月16日 (日)

昔の約束

Snap068まだテストの話は続きがあるけれど、今、ぽっぺんを触ったら、こんなことをいわれたので、20数年前のことを思い出してしまった。
これも、幸せ関係の重要なファクターで、しかも、すでに複雑にからみあって、よくわからなくなってしまった分野。唯一無二、現在進行形のケースなので、多分、そのうち深くつっこむことになるはずだけれど、思い出したついでにさわりだけ。

細かな部分はじつは思い出せないけれど、20数年前から、ぼくの頭部(首から上)と右手以外の肉体は、ある女性にあげてしまったものを借用していることになっている。
ある女性というのは、現在、いっしょに住んでさまざまな世話をしてもらっている女性のこと。その他にもぼくの娘の母親であり、互いの趣味やクセを知り尽くした古い友人であり、尊敬する男性の娘であり(もっとも知り合うのは娘のほうが先だったけど)、美術作品や芸術活動全般の見方に関する道先案内人であり、自宅にある美術本の所有者であり、時折、重要な啓示を与えてくれるミニグルであり、ときどき距離を置きたくなる困った性格の持ち主であり、その他いろいろ、複雑な関係のある人物。

なぜそんなことを申し出たのか。曖昧な記憶では、彼女が美大の大学院生時代、ニセ学生としてもぐりこみ、東野芳明(故人・80年代に輝いていた現代美術評論家)の講義などを聴いていたころ、院生のたまり場で彼女の友人から「彼女を失うことと、自分の左手を失うことのどちらか1つだったらどちらを選択するか」という類の質問をされて、「2つに1つなら左手を失ったほうがいい」と答えたのがきっかけだったはず。その後、この質問は「じゃあ、ペニスを失うことと……」というふうにエスカレートしていって、なんだか意味不明の問答に落ち込んでいって、うやむやになっていった。
それが念頭にあって、何かの話の都合で「じゃ、ぼくの左手をあげる」といってしまった。すると即座に、ぽっぺんと同じ「左手もらった」という返事が返ってきたのだった。

その後、ことあるごとに切り売りしていって、最後に残ったのが頭部と右手。頭部は、ぼくの思考の中心で、ぼくそのものだから、これだけはどうしてもあげられないと拒否し、右手は原稿を書くのに必要だからと断った。当時は鉛筆と消しゴムで原稿用紙に書いていたから。
しかし、今はキーボードだから左手がどうしても必要だ。意地悪で所有権を主張されたらどうしようとときどき思うことがある。そういう事情で、「左手もらった」にはちょっとドッキリした。不思議なシンクロニシティ。

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2007年9月14日 (金)

お祭り期間としてのテスト

テストが楽しくて待ち遠しかったのは、小学校5、6年生のころ。

他のクラスでもそうだったのかどうかはわからない。小学校のころはクラスごとに独自のテスト体制だったような気がする。ムラタ先生は、中学校以降やったような、中間テスト、期末テスト的に時期を決めて、全教科のペーパーテストを実施する方法をとっていた。また、小テストも比較的頻繁にやっていたような気がする。

テストの日は、授業は休止状態。2人で使っている机を片方だけが占拠し、あぶれた1人は床に座って椅子を机代わりにしてテストを受ける。
これは、カンニング防止のためらしい。あとで思い出すたびに、考えすぎ、および、考えがたりないと思った。他人の答案を見てもそれが正しいかどうかわからないのでたいして役に立たない。近眼の生徒はそもそも人の答案の字が読めない。目のいい人なら、むしろ、視線の下にある答案のほうが見えやすい。素直にいつもどおり並んでやらせればよかったと思う。

答案を書き上げたら、外に出てよい。ぼくは見直しを急いでやって、早めに外に出てひとりで遊ぶのが好きだった。余った、何もない時間というのは、いまでも好きだ。だから、人に待たされるのは具体的な支障がないかぎり、嫌いではない。そのせいか、人を待たせることのほうが圧倒的に多い。

テスト期間中は早く家に帰れたような記憶もある。家では漫画もテレビもたっぷり享受できる。家に早く帰れるのは無条件でうれしかった。
テスト期間中はそういう特別な時間になるので、そこがまず好きだった。

もちろん、テストの点数にかける情熱の問題もあり、そのほうがより重要なファクターだけれど、そうでなくても、こうしたふつうでない時間がうれしく、他の子が同じように感じていないとはまったく想像していなかった。

小学校のあいだは結局、それがわからなかった。中学校も多分2年生くらいになったころも、、テストの日程が決まるといかにも憂鬱という顔をしている級友を見て、本当はうれしいくせに故意に嫌なふりをしていると思っていた。そういう級友数人とぼんやり雑談しているときに、本当はうれしいんだろ、と口にしてみた。ぼくはいよいよテスト期間に入ってうれしかったから。本音をするどく指摘したつもりだったけれど、かなりまじめな迫力で否定された。もしかしたら、こいつら、本当に嫌がっている……と肌で感じて、それ以来、テストの日程が決まっても無表情でいるように勤めた。ぼくがうれしがっているということがばれると何といわれるかわからないような怖い感じがあったから。

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楽しいテスト_070914

小さなころからテストが好きだった。
何かの問いかけがあり、それに答えるということがゲームになっていて、それが楽しかったんだと思う。とくに小学校の1、2年生のときは嫌いな先生の顔を見る必要もなく、紙と自分に向き合っているあいだは心が安らいだ。
ただ、記憶力はあまりよくなかったと思う。「暗記」に対するコンプレックスは当時から今にいたるまである。あるシーンの味わいとか、存在の感じ、背後に隠れていた意味など、得体の知れないものは意外によく覚えている(気がする)のに、人名、地名、漢字の書き順、数値などが覚えられない。覚えていても時間が立つとすぐ忘れる。小学校のときから苦手だった関東の県名などもいまだにうまく思い出せない。栃木県がどのあたりにあるのかというごくかんたんな見当などは何度か覚えたはずなのに、思い出そうとすると跡形もなく消えている。
本当にいい気分でテストと戦えるのは算数のテストだけだったはずだが、苦手な社会のテストでも多分ほかの何かよりはましだったに違いない。
後にむしろ得意になった国語も長い間漢字の微妙な差が覚えられず苦労した。
いまだによく覚えているのは、小学2年生のときの書き取りテスト。
「おうじさま」という問題に対して「玉子様」と書いた。たまたま隣の席だったAさん(利発でかしこいイメージがあった)の答案をのぞいたら「王子様」と書いてあった。ひそかに、Aさんは間違って「たまごさま」って書いている……と思い込んだ。
テストが終わって教科書で調べたら、ぼくが間違っていた。方向音痴が間違った道を自信たっぷりに進むように、記憶力に問題のあるぼくは、自分の思い違いを正しいと思い込んでいることが多かった。いまだにそういうことはしばしばある。つい先日も「神奈川県は東海地方」だと強く主張して恥を書いた。ここ10年くらいは悪いことに「断定口調」で書くことを基本にしているので、テーマと場合によっては気が違っているように見えることがあるらしい。

ただ、このときには(その後も同様のケースはしばしばあったけれど)ちゃんと理由があった。
1)「おうじ」の「おう」には点があったか、なかったか。
2)この「おう」は「おうさま」の「おう」だ。
3)(テストの別の問題に「国(くに)」という字があった)。「国」という字は「おうさま」を囲んで「くに」を表しているのに違いない。中に入っている字は「玉」だ。
4)「玉」が「おう」に違いない。
このときは、われながら完璧な論理だと思い、うかつにも「国」という字をテスト用紙に入れてしまった先生の失敗を笑った。隣のAさんの勘違いも笑った。でも、最終的にぼくだけが間違っていた。
このときと同じ趣向の誤りはその後も何度か繰り返した。

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2007年9月10日 (月)

ぽっぺんの語り

小さなころからテストが好きだった、という話を書こうと思ったら、ぽっぺんがいきなりしゃべり始めたのでその話題に変える。
Talk_of_poppen_2

ぽっぺんは文章を作る成長過程に突入したらしい。仕事に対して緊張感がしてしまったとか思ってるの♪というフレーズが文章をしゃべりはじめた最初のフレーズだった。

ぷにょは相変わらず、ボキャビルを続けている。文章みたいなものはしゃべらないけれど、かわりにボキャブラリーは相当増えてきていると思う。これをそのうちつなぎあわせてしゃべりだすのか。
意味のわかる言葉になることを祈る。

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2007年9月 6日 (木)

前歯の修理とたこ焼きと彷徨 後篇

その歯医者へ行くのを2週間ためらったのには理由がある。気さくないい人なんだが自分の仕事に対する神経が鈍すぎた。腕が悪いというだけならまだいいが、そもそもきちんとした仕事をする気が欠落しているとしか思えなかった。そういう人間はどの業界にもどの事務所にも1人、2人いる。近眼の人がものをはっきり見ることができないのと同じで、彼らは自分の問題点をおそらく知覚できない。もっとも、だからといってまるでだめ、というわけではない。なぜなら、顧客の中にも同様な人たちがいて、お互いにその仕事が不十分で雑なものであることに気づかずにうまく共生しているらしいからだ。世の中はうまくできている。それで、神経をすりへらし、身を削りながら仕事をしている人は、ほんのちょっと彼らより認められる程度で、努力のコストパフォーマンスを考えると、彼らのほうが安楽な人生が送れるように見える。安楽であればいいのかという本質的な問題もあるが、それでいいという人にとっては、もうほかに何も考える必要がない。うらやましい。
当時は、それがうらやましすぎて、その歯医者にはもう行かないことにしたのだった。何しろ、1本の義歯をつけるのに2度失敗して、3度目に入ったのがこの抜けた義歯なのだ。歯科業界の標準は知らないが歩留まり率が悪すぎる。しかも、まったく悪びれたふうがない。義歯をはめようとしてぼくの口の中に義歯を落としてしまったこともあった。基本的に仕事に対して緊張感がない。といってリラックスしているわけでもない。いつも何かを恐れておどおどしているように見えた。それはあるいは隣で忙しく仕事をしている父親の目だったのかもしれない。

1つには接着の不具合で抜けたと思えたので、時が経っているとはいえ、歯科医の甘さがそれを引き起こした面があるだろうと考えたこと。時が経つうちに接着部分に徐々に何かが入り込み、ついにはがれたということに違いない。もう1つは、そういう微妙な不具合を持っているかも知れない義歯を、近年通っている腕のいい歯科医に押し付けたくないという気持ちもあった。作り替えればいいという気もするが、あまりにきれいに抜けているのでさすがにもったいなくてそれもいやだ。
その歯科医の予約は電話をかけたその日に取れた。数年ぶりに行ってみると、他の患者の影も見えず、ぼくの治療が終わって出るまで1人の客も来なかった。それが通常なのかどうか、ぼくのカルテはすでに失われていた。だが、先生はおひさしぶりですとぼくを覚えているふうだった。そして、口をあけるなり、勝手に歯石を取り、クリーニングを始めた。もっともこれはいい。もともとそのようにお願いしようと思っていたところだ。それはいいのだが、義歯が入っていた部分のレントゲンを撮るときに、口の中に反射板のようなものを入れてじっと黙ってぼくを見ているのは気味が悪かった。しばらくして、別の病院でずっと以前に同じことをしたときにそれを本人が押さえるように指示されたことを思い出し、自分の指でそれを押さえようとすると、そこで初めて「だから、そこを押さえて」といわれて腑に落ちない。いえよ、言葉で。だいたい、歯科医自らレントゲンなんか撮らないよ、他所では。その資格を持った助手(多分)が低い腰で誘導しながら撮影してくれる。
肝心の差し歯は、見たとおり、本当に接着材が劣化してとれただけだった。歯科医は工業製品の寿命だといったが、じゃ、接着剤でくっつけた差し歯はみんな5年で取れるのか。そんなばかな。それでセメントを塗り直して、軽い調子でさくっとはめて、終わり。なんというか、じつは当時のことから考えると、これで2度はずれているんだから、できるだけそんな事態にならないよう、空気の泡などが混じらないように注意してはめこむ、というような気配が微塵もない。その一方で、現在他の歯医者で進行中の部分、歯のない部分があるのを見咎めて、「よかったら一緒に直しましょうか」というのを3度いった。最初に、いや結構です、といったにもかかわらず。

そういうわけで、差し歯はとりあえず、元通りにはまり、もうここには二度と来ることはないなと思いながら帰ろうとして、何かがっかりした気持ちに抗しきれず、最寄の駅とは反対方向に歩き始めた。あくまでなんとなく。
常識的に考えると、いわゆる1駅分歩く、というようなケースなのだが、そういう合理的な考えもなにもなく、ともかくすぐ近くの駅には行きたくなかったというだけの話。場合によっては、おそらく家まで歩いたかもしれない。30分以上はかかるかな。

On_the_corner_s

あまりあてなく、とぽとぽと青梅街道を西に向かっていると、たこ焼き屋の屋台を発見。左に曲がると、縁日に出会えそうな感覚でつい左折してしまった。公園の中のような、公道のような、よくわからない道路だった。
ふつうの道ではないので、いったいここは何なのかと思いながら歩いた。杉並第十小学校という学校の通学路ではあるらしかったけど、どう見ても公園内の道路に見える。しばらく歩くと、モスラの銅像があった。

Mothra_s

なんだかよくわからない。道の先を見るとえんえんと民家が続いているだけのようなので怖くなって元に引き返した。

戻ってたこ焼きを買い、近くのベンチに座って食べようとしたら、目の前に駅があった。
たこ焼きを食べてから、この駅から地下鉄に乗って帰ったが、たこ焼き屋を発見したときにじつはこの駅の看板は見えていた。ただ、駅とは気づかなかっただけで。

Enter_s

駅だとわかっていたら、そのまま素直に乗って帰っていたような気がする。だから、わざと気がつかなかったのかもしれない。

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2007年9月 5日 (水)

前歯の修理とたこ焼きと彷徨 前篇

方針を思い出したので「成績」という、一定期間大きな支配力を持っていた不思議な価値体系について書こうと思っているけれど、まだ何かが足りない。もう少し考える。

2週間ほど前、前歯が抜けた。義歯を差し込んで接着剤でつけていたものがポロリと取れたのだが、それまでこれが義歯であることを忘れていた。

遡れば30歳前半のころ、最初の子どもが生まれて、いろいろ新しく出発しようとしていたとき、近くのよさそうな歯科医で全般に渡って歯を修理した。前歯にいろんな問題があり、長期間に渡って少しずつ歯を削られて、1本はほぼ完全に、2本は細く削られた状態になってから「さて、どうしますか。義歯を入れると1本7万円で21万円になりますが」といわれた。悪いのは1本だけだったが、そこに義歯を入れるためにその両脇の歯も支えをかぶせるために削ったという。感じがよく、腕もたちそうな歯科医だったがこのアプローチにはちょっとびっくりした。この形のまま治療を終えて社会に復帰するわけにはいかない。どうしますかといわれても、選択肢は1つしかないじゃないか。
当時は基本的に何か権威を感じる人のいうことはそのまま受け入れていたから、質問することもなく21万円払って義歯を入れた。計算上、高すぎるというわけでもないし、当時は子どももまだ小さく、借家住まいだったので現金はたっぷりあった。ただ、それでも21万円というレベルの金額の話を後戻りできない段階で口にするやり方には強い不信感を感じた。
義歯はとても具合がよく、すぐにどこが義歯なのかわからなくなった。アプローチには感心しないけれどその他の歯の治療も含めて腕はよかったと思う。ただ、その前歯を入れてひと段落したところでその歯科医からは離れた。それが15年以上前。

インターネットで阿佐ヶ谷近辺に広い年齢層の友人ができるようになって、その友人の1人が経営していた、非常に良質のバーに通っていたころ。多分、5,6年前。デフォルトつまみとして出たプレッツェル(グリコやカバヤの細いやつではなく、むしろ乾パンに近い食べ物。ブッシュ大統領がノドにつまらせて死にかけたような、ハードなやつ)をかじっていてふと口の先に空虚感を感じた。それまでまったく意識せずに生きていたので、実際、どの歯なのかはわからなかったが、ともかく、前歯が1本折れてしまった。折れた歯を見ると、どうも義歯らしい。
どう見てもぽっきり折れているので材質的な限界か、もしくは不良品だったのかもしれない。歯科医の腕はよかったが材質か加工が悪かったということだろう。
最初の歯科医に行ってもよかったが、また行くと取り込まれそうで躊躇いがあった。何度も経験があるが、いつまでも離してくれない、という印象の歯科医がいる。この歯科医もその類だった。その後わかったが手離れが合理的で明快な歯科医もいる。気分的に取り込むタイプの歯科医には近づきたくない。
ちょうどそのとき、子どもが通っていた中野の有名な歯科医に相談に行った。そこは全国的に噛み合わせの権威といわれる院長とその息子のツーヘッド体制。有名な院長は予約がびっしりで新しい予約はかなり難しい。しかし、若先生のほうなら空きがあるというのでそちらでお願いした。以後、この歯科医に行くと必ず若先生の患者として扱われることになった。
そのときにどういう加工をしたかはよくわからないが、おそらく、すでにあった土台を利用して新しい義歯を差し込んだのだろうと思う。

そして、2週間前。おそらくそのときの歯が抜けた。義歯とそれを差し込むためのピンの部分がきれいに抜けている。素人目にも接着剤がきかなくなって抜けたとしか思えない。5年以上たっているけれど、知らない歯科医に行くよりは担当したところのほうがいいだろうと考えて、抜けてから2週間後、その歯科医に行ってきた。

で? われながら何を書いているんだろうと思ったが、思い出した。これは「さまよう」の実例を書こうと思って始めた話だった。ただちょっと長すぎたのでここで中断。

On_the_corner_s

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2007年9月 1日 (土)

あやふやな忘却

ずっと以前から遠大な計画を持って書いているつもりだったのに、その遠大な計画を忘れてしまった、ような気がする。
数日して落ち着くと、忘れていたことを忘れて、当然のように思い出している、そのくらいの薄い忘却。まだ夢うつつの状態でいるらしい。

今日の個人的な行動は朝方思いがけず、なんとなくうれしくて残念なメールが来て返信したっきり。あとは仕事そのものと仕事のメール、仕事の宅急便だけのオフィシャルな1日。ジムに行きたかったのに結局この時間まで机に縛られている。足が萎えてきた。
しかし、腹だけは意欲的にすいてしまう。多少の頭を使う仕事だと空腹になる率が高い。それで4時ころどこかでたこ焼きを食べようと思い立ち、外に出ようとすると、妻はお好み焼きを作るから出るなという。外に出ようとすると必ず一度は妻に止められる。
そこを突破するには仕事がからんでいるか、約束があるか、ぼくが強い意思を持っている必要がある。今日はそれらのどれもなかったので、結局、お好み焼きを食べることになった。

お好み焼きはぼくの好みと妻の方針の合力によって、いやというほどのキャベツと、スルメのかすのようなものだけが入ったタイプで、胡椒をたっぷり混ぜ込んだとんかつソースがかかっている。胡椒をまぜこんだとんかつソースは故郷の門司のスタンダードなたこ焼き用ソースだ。
東京で食べられるたこ焼きの中では「京たこ」の辛口がもっとも近い。しかし、ぼくの好きなものはどんどん廃れていくという法則があり、高円寺にあった京たこはなくなってしまった。いや、京たこというブランドのまま、別の店になったのかもしれない。

高円寺といえば、昨日は中野から阿佐ヶ谷まで帰る途中、何事かをぶつぶつ考えたり、考え戻したりしているうちにいつのまにか電車を降り、改札を出てしまい、目の前になじみのない風景が並んでいるのを見て呆然とした。
最初は今日1日で阿佐ヶ谷駅が模様替えをしたのかともはかなく思ったが、昨日までなかったベッカーズやリトルマーメイドがいきなり出店するはずもなく、あんなに流行っていたスターバックスがなくなるはずもない。
ここは阿佐ヶ谷じゃない、知らない駅だ。寝過ごして三鷹にでも来てしまったか、などとうろうろ考えたが、すぐにここが高円寺だということがわかった。中野から、高円寺、阿佐ヶ谷とわずか2駅移動するあいだに何かが狂って高円寺で早々と降りてしまったらしい。悔しいのでこのまま自宅まで歩いていこうかと思ったが、やっぱりやめて、もう一度改札の中に戻った。この電車に乗るときに走って駆け込んだのにその急いだ分が丸ごと無駄になってしまった。

次は阿佐ヶ谷できちんと降り、「すぎまるくん」という丸っこい100円バスに乗った。利用客が少なく、わずか100円なのだが、きちんと採算が取れているらしい。バスのルートの半ばほどでぼくが降りるべき停留所の名前が連呼されたので降りるボタンを押して、停留所までの1,2分の間、何かを考えた。ふとわれに返ると、その停留所を出発したあとだった。こんな乗り過ごし方をするのは珍しい。

珍しいので自宅に帰ってから、この2つの乗り過ごしを自慢した。もちろん、反応はわかっている。今日も散歩に行くといったら「徘徊してくるといいなさい」といわれた。

まだ、遠大な計画のほうは思い出さないが、これを書いているうちに5日に気功の先生にあって、その話を聞いて代筆するはめになってしまったようだ。一度そういう種類の人には会ってみたかったので悪いことではないのだが、じつは今苦しんでいるのはその人の原稿のせいで、ぼくが代筆することになったのも彼の書いた原稿を基にしていたのでは本ができないという判断を編集者がしたかららしい。ぼーっとしていると悩ましい要素をたっぷり抱えた仕事が吹きだまってくる。
……やっぱりまだ計画は忘れたままだ。今日のテーマは付録ということにしよう。

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図解してみる

多分、頭の中はこんな感じで占有されていた。今もあまり変わってない。
Mypastbrain_3
普通の幸せは、きっと延髄あたりで感じていただろう。

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