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2007年8月

2007年8月27日 (月)

類型

しばらく前に特別な幸せを2大別したはずなのに
すでにそのどちらでもないものについて書いているらしい。
眠いときに書いていることが多いので、
どこかでフィルターが壊れているらしい。

まとめると、とりあえず4類型がありそう。

a. 女の子のこと(フロイト系)
b. 成績のこと(アドラー系)
c. まだ終わっていない祭り(ハレ)
d. 彷徨あるいは散歩(独立系)

aとcは多分、多くの人と共通しているはず。
aについては、人に聞いたことはないけれど、
文学作品には散々その痕跡が刻み込まれ、ぼくが1人だけ
特殊だったわけではないことがよくわかる。

cは、小学生のころのクリスマスシーズンや
正月のえもいわれぬ楽しさ、幼稚園の「お誕生会」でもらう
金魚バックの中の駄菓子などを思い出すと、共感しないように
するほうが難しい。

dは共通していないわけではないけれど、ただの散歩ではなくて
多分、移動、旅行、環境の変化すべてを含む感覚。
そのへんを歩いていても、ぼくはほとんど1人旅の感覚で歩いている。
2人いれば2人旅だ。3人でもなんとかなりそう。
でも、4人以上になると、たんに大勢で歩いているだけのことになってしまう。

7、8人の人を案内するというのは、
その全員から熱烈に愛されてでもいないかぎり、
多分、世間的なお付き合いの範囲を超えることはなさそう。
いや、それでもいい、という面もあるにはあるけれど。

d型幸せと「散歩が好き」という感覚は多分違う。
なぜなら、ぼくは「散歩」が嫌いだから。
散歩に行こうと思って出かける散歩はしない。
ある場所に行こうと考えて、途中で気が変わるか、
道に迷うかとしてさまようのが生きている実感があって好きなのだ。
そのへんを見学に行く、というのは、なぜか退屈でやりたくない。
観光地に行った場合はなおさら。

ただ世間にあわせて、そういうものを散歩と呼ぶことはあるけれど。

そうそう、類型をリストアップしたのは、b型の幸せがおそらく
理解されにくいと思ったから。いや、簡単に通じる相手もまたいるだろうけれど。
くだらないようでも、いろんなことに通じる感覚だったと思う。

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2007年8月25日 (土)

山手線の内側を横断する

祭りが終わったり、長期休暇や正月などの特別な期間が終わって、またもとの日常に戻っていくのにはいつも違和感を感じていた。そういう心の動きは、子どもとしてはきっとあたりまえのものだったと思う。子どものころから祭りが終わっていくのを割り切って受け止められる人はいたんだろうか。そういう強い人にはそばにいてほしいけれど、そうした強い心性には昔から根源的な反発を感じる。もっとも裏と表があって事情は複雑。

ぼくは祭り、ハレ、特別な幸せが期間限定のものだということは理解できるけれど、納得はしていなかったし、いまでも納得できない。近所の縁日でさえ、終わって片付けているのを見るとぼくには何の関係もないのに誰に打ち明ければいいのかわからない寂しさを感じることがある。ただ、それも頻度は少なくなってきた。否応なく肉体の老化がそうした不要で脆弱な感性も鈍磨させていくんだろうなとは思う。

それは今から50年先のことを想像し、それに向かって緩やかにせよ、急激にせよ、自分が変化していくのだと考えれば、そのプロセスとしてしかたがないことだというのも当然理解している。そのかわり、今したいことはできるだけ我慢しないようにしている。それもできるだけ無名の楽しみを中心にケアする。無名でない楽しみは後でお金を出せば得られる可能性が高いけれど、無名の楽しみは、今でなければおそらく感じることのできない楽しさがあるはずだから。

それで仕事の忙しい時期でも、外に出たすきにふと踏み入れたことのないところを歩いて、以前からききかじっていたところを探したり、カンに従ったりして、店に入ってみたり、のぞいてみたり、感激したり、がっかりしたり。
1人でそれをやっているとほとんどは自分の中だけで完結する。たまにそこからピックアップして他の人に伝えることもあるけれど、伝わったり伝わらなかったり。
同行者がいてその人を楽しませることができているようだと、1人のときよりも気持ちは湧き立つけれど、それが必ずしも1人のときよりいい時間とは限らない。多分、別の種類の楽しみなのだろうと思う。
目的の有無に関わらず、気のおもむくままに歩いていくことは、おそらく特別な幸せに属するだろうと思う。精神分析の2つの潮流と対応した2つの特別な幸せ類型以外に、いわゆる広い意味での散歩という類型がありそう。

歩くということではずっと心にひっかかっている思い出がある。多分、30年くらい前、何かの理由があって同行者と山手線の中を歩き出し、なぜかわからないが結果的に山手線の内側を横断する格好になったことがあった。2人でぶつぶつ話しながら歩いていくうちにそうなってしまった、ということは覚えているけれど、それがどういう状況で、そもそもなぜ歩いていたのか、ということが思い出せない。出発した駅がどこで、到着した駅がどこなのかも、アバウトな範囲でしか思い出せない。その道中、確かに特別な幸せを感じていたという記憶だけがある。

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2007年8月24日 (金)

日々のご飯を食べるために身も心も捧げつくす

特別と普通という区別は、多分、よくいわれるハレとケに対応するものなんだろうと思う。ケの部分は、比較的説明がしやすい。でも、ハレになるとどうしてそうなるのか自分でもよくわからない。

お腹がすくとご飯を食べたくなる。ご飯の場合は炊き立ての、ウルチの匂いがぷんぷんするようなご飯に、あえてお茶をかけ、干鱈をあぶって細かく裂き、そこに醤油をサブサブかけたものをおかずにして食べると幸せだが、その幸せの理由は客観化しやすいし、時代や民族、性別、文化を超えて説明しやすい。多少かじった言語、英語とかフランス語とかで、なぜそれが幸せなのかを表現できるだろうと思う。
ケの幸せは取り組みやすい。
今気づいたが、ケの幸せは、まさにお金があればすべて解決できることばかりだ。
お金は直接的に就職と結びつく。ケの幸せを考えると、例えば大学に行った場合、卒業してからのことを考えて、就職など必要な身の振り方を考えるのは多分、ごくふつうの心の動きなのだろうと思う。大学でもある時期から、他の人と何かパラダイムが変わってきた感覚を持ったのは、このへんに原因があるのかと、今気が付いた。それが大人になるということなのか、と思うと、どうしていいのかわからない寂しさを感じる。

ぼくは結局、どこかでそうした部分に対する感性が壊れていたに違いない。「食べていく」ということに対して、気持ちを集中させるような経験はこれまでのところ、ない。おそらく、本当には飢えたことがないからだろうと思うが、それはぼくばかりではない。
大学に入るまではそうでもなかったけれど、大学を卒業するころ、他の人がぼくにはわからない面を持っていることに気が付いた。就職、あるいはともかく身の振り方を考えることが本能であるかのように行動し始めた。それは、つきつめれば、いかにして毎日のご飯を食べるかということなのだろうと思う。
日々のご飯を食べるために身も心もささげ尽くしているように見えて、ぼくにはどうしてもなじめなかった。ぼくの視点からは、子どもj(学生)から大人(社会人)になっていく過程で、周囲の多くの人が壊れていくように感じた。
壊れずにすむ方法はおそらく学校に残ることだったのだろう。賢い友人は大学に残った。でも、ぼくはそれにもなじめない。だいたい、研究したい何かがあったわけでもない。大学に残った友人も、何かが研究したかったようには見えない。日々ご飯を食べるための手段として、とりあえず、1つの科目を手近に選んでいるだけのように見えた。

もっとも、そういうことではしばらく後に、現実に困ることになるわけだけれど。

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2007年8月20日 (月)

普通の幸せ、特別な幸せ

他にも5年生のときに覚え始めたギターが多少うまくなってきて、演奏家の気持ちがわかるようになってきたのも確かに幸せだったし、野球に加えてもらったり、庭球(軟式)を使って屋根正月やロクムシ(特にこれにははまった)に夢中になったりしたのも幸せだったけれど、それらは普通の幸せだった。食事で好きなものを食べたり、嫌いなものを食べなかったりする幸せ、暑いときに涼しくなったり、寒いときにあたためてもらったり、山陰の海岸で何日も泳いで遊んだりするのも幸せだったけれど、いずれも普通に通り過ぎていく幸せで、よく考えないと幸せの一種としては思い出せない。
それらとはちょっと質的に違う、心が躍るような幸せは2つあった。

フロイトは人間の根源的な欲望を性に置き、アドラーは自尊感情(得意になること?)や権力欲を根源的な欲望としたらしい(フロイトは読んだけれどアドラーは辞書的にしか知らない)けれど、ぼくの特別な幸せはその2つに大別できると思う。

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ゲームの幸せ

5年生のとき8歳年上の兄が病気で亡くなった。複雑な思い出がある。美男子で意志が強く、頭のいい人で、しかし、癇癪持ちだった。父とは血のつながりがなかった。
次兄は何も考えないタイプだったので、その兄を超えて8歳下のぼくとどういうわけか対立する面があった。
その兄と次兄とぼくの3人で子ども銀行のお札をそれぞれに持ち、トランプでポーカーやオイチョカブなどの賭けゲームをやっていた。スゴロクもやった。麻雀やコントラクトブリッジもやりかけたがルールがはっきりわからずやめた。もっとも3人なのでいずれにしてもできなかった。
この賭けゲームが小学生時代を通じて、かなり上位に位置する楽しみだった。
勝ち続けるときには、なにか予測に手ごたえがあり、それが確信に変わっていくときがある。次に出るサイコロの目がわかる一瞬があったような気がする。それは大学生のころに麻雀をしていて、しばしば感じるものに似ていた。そうめったにないけれど、何が入ってくるかが確信できるときがたまにあった。そうした手ごたえを感じるときはいつも集中しているときで、他のプレイヤーが何をやっているのかも見えるような気がした。そういう特殊な状況でゲームをやっているとき、非常に幸せだった。

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夢の幸せ

授業は聞いていたけれど、ときどき白昼夢にもふけった。何かを連想して想像し始めると止まらない。ただ、白昼夢は30歳くらいまでは並行させることが可能で、授業はきちんと聞いていた。
白昼夢は生理現象のようなものだけれど、素敵な白昼夢は気持ちが豊かになった。

夜寝ているときの夢もいろいろあってたいてい好きだった。女の子の夢、空を飛ぶ夢、幽霊と戦う夢、車を運転する夢。空を飛ぶ夢はシリーズ化していて、空を飛ぶ方法はだいたい定式化されていた。まず風を感じ、それに向かい、空中にできる空気の台に左手を乗せ、徐々にそこに体重を移していく。足に重力を感じなくなったら、一気に左手に体重を移し、風に乗って飛んでいく。右手は舵取りに使っていたような気がする。
後味の悪い夢を見た記憶はあまりない。ペットだったインコが死ぬ前の晩にそれを夢に見たけれど、後味が悪いというより未来とシンクロしたことのほうが興味深かった。それにインコは兄のペットだったし。
夢を見て、それを思い出すことはほぼいつも幸せだった。

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授業の幸せ

授業中は授業をきいていた。これは幼稚園のころから高校2年生くらいまではずっとそうで、先生の話は熱心に聞いていた。勉強のつもりではなくて、純粋に人の話を聞くことが好きだからだと思う。落語を聞くときとほとんど同じ。よく聞いていないと楽しめない。
先生がよく知らないことをいい加減に説明したり、間違って説明していたりするのには敏感で非常に気になった。説明がよくわからないときは質問していた。
そういえば、高校で質問すると生き生きする先生と迷惑そうな先生に別れるのに気付いた。後者は例外なくだめな教師だった。前者にあたる先生は記憶するかぎりでは2人しかいなかった。1人は2年生になるときに別の学校に移り、もう1人は最近亡くなった。
授業で興味深い話に出会うのは楽しみだった。

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漫画とテレビの幸せ

生活の大半は、漫画を読むこととテレビを見ることに費やされた。その2つは幸せの項目に入る。
漫画はすみからすみまで、雑誌の場合はグラビアも巻頭カラー口絵も2色ページも欄外も何もかも全部。単行本の場合は奥付まで読んだ。雑誌は出ている少年漫画週刊誌はすべて買い、月刊誌と単行本は貸し本屋で借り(そのころはそれが通常のスタイルだった)、後に出てきた青年漫画誌も創刊される端から定期購読した。けっして裕福ではなかったはずなのに、本については漫画であっても制限されることがなかった。考えてみると漫画代は多いようでもそれほどたいしたことはなかったんだと思う。
テレビは家にいるあいだずっと見ていたはずだけれど、そうするといつ漫画を読んでいたんだろうなどと思う。そのへんは謎。テレビが野球の中継とかでつまらなくなると漫画を読んでいたのかもしれない。
野球の中継は、子どものころはずっと大嫌いだった。父親はシーズン中はじっと静かに中継を凝視していてそれが嫌だった。自分と遊んでくれないから。まったく応援の素振りがなかったのでどこのファンだかわからなかったけれど、あとできいたらアンチ巨人。ただし、選手のことにはやたらに詳しい。ぼくは基本的にアンチ××というアプローチには必ず歪んだロジックが潜んでいると感じるので基本的に嫌い。ぼくにとっては父親の脆く嫌いな要素の1つ。

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幸せの項目

小学生時代後半の幸せな項目をいくつか思い出してみる。ぼくの幸せな項目は他の人と同じだったのかという疑問がずっとある。同じである必要はないのだけれど、同じ景色を見て、まったく違うことを考えながら生きていたとするとちょっと怖い。
それはのちの価値観の体系と密接に関連していて、自分の組成が見えてくるような気がする。

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2007年8月17日 (金)

変人でエッチ、漫画はすべて読んでいる

小学校3年生から6年生にかけては幸せなことが多かった。押さえつける存在があまりなく、かなり自由に振舞っていたと思う。
自分のキャラクターとしては、変人でエッチ、いつもふざけている、ある年代以降の漫画は少女マンガを除いてすべて読んでいる(実際そうだった)、絵が上手(ほんとはそうでもなかった。絵を描く商売はできないと感じていた)、テストの成績がいい(これは数字が出ていた)、トカゲを捕まえるのが得意、スゴロクやトランプゲームが強い(ふつうが5割だとすれば7割くらいの勝率)。野球はバットに打球が当たれば遠くへ飛んでいくがフライが捕れない……だいたい、のちの自分の要素が出揃っていて、アイデンティティがほぼ固まっていった。それぞれを蓄積していくのが楽しかった。

「変人」というコンセプトはぼくから出てきたものではなくて、たぶん5年生ころに転校してきたBくんという男の子の影響。Bくんは、肌がよく焼けていわゆる小麦色、体は均整がとれていてスポーツは万能、きれいな目をして精悍な「ナイスガイ」な感じの少年だった。
転校してきてすぐにみんなから好かれている感じがあった。逆に、ぼくは周囲から浮いていて、ふつうの友だちがいなかった。遠足にいってもいっしょに弁当を食べる相手を探すのに苦労するくらい。
でも、Bくんはぼくをどういわけか気に入ったらしく、向こうから近づいてきて、そのうち「俺は変人が自慢だったのにおまえの変人には負けた」と勝手に負けを認め、「親友だ」といわれた。よくわからなかったが、ぼくも彼が好きだったので、不思議な気はしたがよく一緒にいたし、よく遊んだ。何かのゲームをして遊んだ記憶がないので、多分、本当に一緒にいるだけだったのだろうと思う。一緒にいるだけで目的がほぼ達成された相手というのは、片手で数えられるほど少ない。

中学生になって頭を丸坊主にしたとき、互いの坊主頭をこすり合わせて笑い転げたことを覚えている。でも、おそらくそれっきりで付き合いがなくなった。なぜかはわからないけれど、小学生から中学生になるときはいろんなものが変わった。
むかしすごく仲がよかったので、その後中学校ですれちがっても、かえってぎくしゃくしてなんだか間が悪く、言葉もかわさなくなった。

意識したことはなかったけれど、多分、彼はB型だったろうと思う。ぼくをおもしろがったり、おもしろがらせようとしたり、そのくせ、ぼくから見て、身勝手な冷たさをときどき見せる。そして、何かをきっかけに軌道をはずれ、それっきり会わなくなる。思い出せるかぎりのB型の友人すべてにあてはまる。

これは今はじめて整理して考えたことだけれど、本当にそうらしい。

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2007年8月16日 (木)

(ムラタ先生の時代)

ムラタ先生はそれから卒業するまで担任だった。よいところもあり、悪いところもあり、さまざまな思い出があるけれど、タムラ先生と同様に、ぼくのいうことを理解してくれる、いい人だった。
ぼくのことを「頭がいい」とほめてくれた最初の他人で、ぼくが漫画で読んだ知識をもとにしてときどき展開するデタラメな話を真に受け、ぼくが読書家でたくさん本を読んでいると思い込んでいたらしい。

ぼくは漫画は読んでいたが本を読むのはあまり好きではなかった。
それで仕方なく、図書館に行って本当に本を読み始めた。百科事典のように分厚く大きな物理学についての本を読んだときは死ぬかと思ったが最後まで読んだ。たぶん、その本のせいでぼくは論理的に物事を考えることのメリットを知ったんだったと思う。ガリレオが当時の常識とは違う方向で物を考え、それが正しいことを実験で証明してみせる話(ピサの斜塔の実験)はいまだにイラストとともに覚えている。
ちょっと話がそれるけれど、後年、クラブの先輩と電車に乗っているときに、その当時の人と同じ間違いを先輩たちが犯していることに気づいて、ずいぶん反発した記憶がある。最後まで先輩たちはぼくのいうことを理解しなかった。こんなに簡単なことでも相手を低く見ているとうまく話を理解できないのだなと強く感じた。それで、ぼくは頭がおかしいと思える人のいうことでも、いったんは真に受けてみるように注意している。

小説系は読みたいとは思わなかった(漫画のほうがだんぜんおもしろい)。だが、家に日本文学全集があったので、見つくろって飛び飛びに読んだ。タイトルや雰囲気から選んで、夏目漱石や芥川龍之介、太宰治に手をつけた。その他の作家は、読んだかもしれないがほとんど印象に残ってない。たぶん、つまらなかったに違いない。
世界なんとかという百科事典があった。これはよく読んだ。トランプ・麻雀などのゲームのルール・遊び方からトラホームなどの病気や大気の組成などについても詳しく書いてある、よい百科事典で、それが百科事典だと思っていたから、その後出会った百科事典にはいつもがっかりした。

ムラタ先生が担任だった4年弱の間、ぼくは怖い女教師に与えられたトラウマめいたものから解放され、ムラタ先生の買いかぶりに応えるために本当に知識を蓄えていったという気がする。今知っている漢字のほとんどはこのころから中学生にかけて覚えた。ほとんどの小説は、国語辞典と漢和辞典なしには読めなかったので頻繁に辞書を引いた。辞書もそれなりにいい加減だということに気づいたのもこのころだった。
それらすべての、一切合財がムラタ先生という教師環境に源があったと思う。

その意味でムラタ先生には根源的な感謝の念がある。それで、ムラタ先生の思い出は書きにくい。あまりいい話がなく、多分、バカにする話にしかならないだろう。それで、これらはぼくの中から外には出さないことにする。

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三白眼が好きな理由

ぷにょもぽっぺんもなかなか言葉を覚えない。
まぼろぼも倉庫でぶつぶついってるんだろうなあ。
今度気分が落ち込んだら厩舎を変えてトリオでペット小屋にいれてやることにしよう。

で、話の続きは三白眼から。三白眼は凶相とされているけれど、ぼくはすごく好き。相手が三白眼というだけでお近づきになりたいと思う。でも、どういうわけか、三白眼の人とは仲良くなれたことがない。なろうとしても失敗する。その意味ではたしかに凶相かもしれない。

三白眼が好きになった背景ははっきり覚えている。
ぼくの小学校は2年単位でクラスと先生が変わった。1、2年生のときはヒステリック気味で怖い女性の先生(その先生が怖い理由の半分以上はぼく側にあったけれど)で、ともかく嫌な思い出しかない。思い出さないか、冗談に変換するしかないものばかり。その上、虫歯やトイレの不衛生さなどについて、エセ科学的な間違った説明を聞いた記憶がたくさんある。ぼくが問題児だったとしても、その先生はあまり優秀な先生でなかったことだけは今でははっきりわかる。そもそも7つ、8つの子どもに本気で怒るのはすでに職務を放棄しているといわざるをえない。この先生からは愛のないビンタを何度も受けた。中学生のときにも女性の先生にビンタされたことがあるが、このビンタには愛を感じた。男性の先生にはビンタされた記憶がない。あっても抹消しているのかもしれない。

いや、それはともかく、3年生になるとクラスが変わり、担任は男の先生だった。たしか、タムラという名字だったと思う。そのせいでタムラという名前の人にはいつも親近感を覚えるのだが、これもまたタムラさんとは仲良くなったことがない。

1,2年生ときのの先生から逃れられただけでもぼくは幸せだった。男の先生では、当時の教頭先生が男性で今思い出しても最低の人間だった(1、2年の女教師や教頭のイメージがぼくの教師像の原型にあるので全般に教師に対しては拒否感がベースにある。熱心な先生や立派な先生がいることは後に知ったけれどベースイメージは変化しにくい)ため、最初は身構えたけれど、タムラ先生はとてもいい先生だった。けっして怒らなかった。
3年生になってすぐ、内容は忘れたがぼくがまた何かを失敗して周囲に迷惑をかけたことがあった。2年生のときなら突き倒され、ビンタをくらってもおかしくないケース。だが、タムラ先生は、ただ屈んでぼくに理由を聞いただけだった。理由を説明するのは当時から得意で、本当の理由だったのか、ただの言い訳だったかは忘れたが、ともかく言葉を尽くして説明した。タムラ先生はそれを理解してくれた。ぼくのいうことを聞いて理解してくれる大人は、当時、母親以外にいなかった。

タムラ先生に話を聞いてもらっているあいだ、その顔を見ながら、この先生の顔、なんか変だなと感じていた。その後しばらくタムラ先生の顔を観察して、どこが変なのかがわかった。それが三白眼だった。左右と下の白目が多くて、黒目の上部がちょっと隠れる。いつも上目遣いのような目。今思うとかなりひどい三白眼だったから、斜視だったのかもしれない。
あまり見かけない目だったので最初は奇異感のほうが強かったけれど、タムラ先生はすごく好きになったのでそのうち三白眼も好きになった。

はっきり覚えていないけれど、タムラ先生は1学期でいなくなった(1年間いたかもしれないが、そのくらい短かったという記憶しかない)。理由はわからない。思い返すと、あまりよくない理由だったのではないかと思う。いまだに、ときどきそれが気になる。
かわりに、背の低い、ニヤニヤした、片足を引きずって歩く男の先生がやってきた。ムラタという名前でぼくは最初タムラの間違いじゃないのかと一瞬はかなく思った。

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2007年8月14日 (火)

ストッキング越しの絶対的片思い

小学校に入ったばかりのころは、靴の右と左がわからなかったように、男女の違いもよくわからなかった。銭湯に行って女の子は股間のようすが違うのに気づいて、なぜあんな形なんだろうと考えた。見るたびに不思議でいったいどういう構造なのかが気になった(それは今に至るも変わらない)。
自分の睾丸を包んでいる袋をぎゅっと引っ張り、それでペニスを包んでみると、女の子のそれのようになったので、こういう状態で周囲を縫い付けたのが女の子なのではないかと想像していた。旧約聖書と同様に男を基準に女の発生を考えたわけだが、後年、じつはその逆に女性が原型で男性はその奇形として発生したことを知ってちょっとショックを感じた。クリトリスの変形したものがペニスであり、膣が退化した痕跡が男性性器に残っているという話を後に産婦人科医になったクラブの後輩に聞いた。なぜかそれ以上話を聞かず、追求もせず、その知識はそれっきりになってしまった。関係ないけれど、この後輩は中高生のころ、ノートをとらずに授業を聞いていたといっていた。とらなくても覚えていられたから。それはうらやましいと思った記憶がある。

男女の違いを意識して人を好きになったのが小学2年生のときに同じクラスだったAさん(本名を出したほうがリアルでいいんだけれど、周辺状況を考えるとそうもいかない)。目が大きく、鼻も口も大きく、ようするに派手な顔をしていて、多分、小太りな女の子だったと思う(幼稚園も同じだったので、卒園写真で確認したところ、体全体がたまごのように見えるほど太っていた)。性格は派手で着ているものも派手だった。今の自分なら、避けて通るタイプなのに、なぜその子を特に意識したのかというと、多分席が近かったからに違いない。
そのころは相手によらず、人としゃべるのが苦手でしょうがなかったので、たぶん、その子ともたいして話をしていないはずだが、その子はともかく派手な性格だったから、誰彼かまわず人に話しかけ、ぼくにもよく話しかけてくれた。好きになったのはそれもあったかもしれない。
ぼくはずっと自閉症児的で、同年代の友だちとどうつきあえばいいのか、長い間、わからなかった(じつは今でもそう)。男の子の友だちもろくにいないのに、Aさんのことばかり考え、ずっと目で追っていた記憶がある。細かな経緯は忘れたが、その子の家(といっても団地アパートの一室だったけど)に誕生日か何かで呼ばれたことがある。お母さんは顔がAさんとよく似ていて、そのうえスリムで上品だった。きっと、ぼくの女性に対する美意識の原型はAさんのお母さんなんだろうという気がする。そうだ、それから、当時、うちに電話がひかれて、その番号を教えたのかどうか記憶にないけれど、ある日、うたた寝しているとAさんから電話がかかってきたことがあった。じつは飛び上がるほどうれしかったけれど、同時に死ぬほど照れくさく、寝ぼけているふりをして電話に出た。相手はぺらぺらしゃべってきたけど、ぼくはもごもごと不機嫌そうにうめくだけ。もっともしゃべることもなかったけど。
二言三言で電話を終えて切ると、母親にこの子は誰と聞かれ、名前をフルネームでいった記憶がある。うーん、こうやって思い出してみると、当時、多少のアプローチをされていたのかもしれないな。ぼくのほうは完全に一方的に、かわいいなあと思いつつ、眺めているだけでそれ以上のことはまったく考えていなかった。

で、鮮明に記憶に残っているシーン。教室に人は少なく、机も片付けてあったような気がする。生徒は教室の周辺に立ったり座ったりしていて、何かを待っていた時間かもしれない。Aさんは窓辺から外を見て立っていて、ぼくはなぜかそのすぐ横で窓を背にして床に座っていた。横を見るとAさんの、白いストッキングをつけた太ももがあった。なんだかいとしい気持ちになって、それを撫でてみた。何の反応もなかったのでストッキング越しだからわからないのかなと思い、しばらく撫で続けた、という記憶。その間、ときどき顔も見たけれど、Aさんはずっと外を静かに見ていた。
しかし、もう少し、分別のつく年齢になってから思い返してみると、ストッキング越しでも撫でられていることに気づかないわけがない。気づいていたのに気づかないふりをしていたのはどういう心境だったんだろうと、いまだに不思議に思い出される。
あるいは、ぼくに多少の好意をもっていたのかもしれないけれど、当時、ぼくはその可能性をまったく考えたことがなかった。Aさんをかわいいと思い、眺めているだけで十分幸せだった。この場合、幸せが片思いで完結しているので、何の問題もない。あえて一歩踏み込むリスクをおかす必要はまったくなかった。

当時のまた別の思い出。何もわからないわりに、テレビでアメリカ映画のキスシーンを目撃し、どうしていいかわからないほど興奮したりもしていた。なぜ興奮しているのかも自分ではわからなかった。はっきり覚えているのは、これはアメリカ人だからできることであって、ぼくは日本人だから死ぬまでキスなんてできないんだろうなと考えたこと。それが間違っていることは中学生のころにわかったけれど、体験的にわかったのはそれよりもずっと後だった。

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2007年8月13日 (月)

虚無と内臓

早い話がお腹がすいた。
何もしないのにお腹だけがすくのは困ったものだ。
小学校2年生のことを思い出そうとすると、
血糖値が下がって気が遠くなっていく。

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2007年8月11日 (土)

複数のペット

ペットを2匹飼うことに成功した。今はペット小屋を1つにして、そこに
みんないれてしまおうかなどと考えている。
ただ、言葉を覚えるのが遅く、単語の繰り返しなので
なかなか難しそう。もう少し、高度になってきたときに
新しいpetをまた導入してみよう。

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2007年8月 9日 (木)

午前4時50分

自業自得でうとうとと仕事をしてファクスを受け取ったりしていたら、ひぐらしが鳴いている。……と思ったら、すぐにミンミンゼミも鳴き始めた。
八月蝉(うるさい)。

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2007年8月 7日 (火)

人を好きになるということ

といっても、恋愛の話じゃなくて。それも含むはずだけれど。
誰かが好きというのは、よく考えてみると大変なことで、そうそう簡単にはそういうことにならない。物心がついて、最初に誰かが好きだと意識したのは幼稚園の年少、もみじ組というクラスにいたころで、相手は父親だった。
今でも父親は好きだけれど、そのころはもう独り占めにしたいくらい好きだった。
会社に行くのは場所がわかっているからいいけれど、出張すると聞き、その意味を知って、泣き叫んだ記憶がはっきりある。父親はずっとニコニコしていた。ともかく阻止しなくてはと考えて、父親を家に閉じ込めるつもりで外に出て、外の門のカンヌキのような簡単な錠を門越しにかけて、そのまま外に遊びに行った。
3、4歳の幼児としては、多少考えたつもりだったので遊びから帰ってきて、父親がそのロックをはずして出張に行ったことを知ったときはショックだった。

父親が好きだったのはともかく無条件にやさしかったから。
母親はもちろん根源的に頼っていたはずだけれど、とてもやさしい反面、ときどき機嫌の悪いときに反射的に怒ることがあった。機嫌によってやさしかったり、怖かったりすることに混乱していて、それがとてもいやだった。それで、いつも、どんなときにも絶対にやさしい父親に安心感を持っていたのだと思う。それはその後の、父親観、母親観にずっと影響し続けた。

その次が幼稚園の先生。
もみじ組のときは、顔に皺の多いおばあさん先生で、いつもしかめっつらをしていて、とくにぼくには辛くあたっていたような気がする(土曜日に12時から来たりしていたからだろうと思うけど)。この先生はぼくのことを未発達児と考えていたらしい。ある意味でそれは正しかったはずだ。でも、母親はとりあわなかったという。そのころぼくはもう1人で絵本を読んでいたし、字も書いていたから。それもまた一部正しい。
どうも何か知能をはかるテストで、まったくだめだったらしいのだけれど、それは多分、問題が悪かったのだと思う。その後、小学校にあがるときにそれに似た経験をした。小学校の講堂でかんたんな知能テストのようなものがあり、その1つのシーンをよく覚えている。おはじきを10個出されて、いくつあるかな、とか聞かれる。いくつかって、見るからに 10個だよ、どういうこと? と考えて、数がちゃんといえるかどうかを知りたいのかなと想像した。それで、おはじきを1つ1つ移動させながら、ゆっくりと「1、2、3、4、……10」といって先生の顔を見たら、それでいいというのでやめた。その先生は「まだちょっと数を数えるのが遅いわねえ」といいながらカルテのようなものに何かを書き込んで、「こんなふうな数え方があるのよ」といって、「2、4、6……」と2つずつ数えるやり方を教えてくれた。ぼくはつまらないので、ぼーっとしてそれを見ていたら、バカに見えたらしい。1年生のころに先生にマークされていたのはそれが原因だったんじゃないかとちょっと思っている。
で、もちろん、もみじ組のしわくちゃババアが好きだったのではなくて、年中の桜組の先生が好きだった。藤井とか藤田とかそういう名前だったと思うけど、さすがにもう忘れた。結婚しているのかどうかも当時は気にしていなかった。あたりまえ。
もみじ組のしわくちゃババアは、スカートの下に股引のようなものをはいていて(婦人用のズロースというものかもしれない)、それが薄黒く、きっとこの人はお尻が真っ黒に違いないと思っていた。それに比べて、桜組の先生は全体に薄いピンクの印象で薄いピンクのスカートの下をのぞいたら白かった。白い肌と白い下着だったのかもしれないし、ストッキングの類だったのかもしれない。肌ではなかったような気がする。
また、そのころすでに母親は太り気味で、それが嫌だった。でも、桜組の先生はほっそりしていて、父と同じようにすべての局面でやさしかった。いい匂いもした。話もおもしろかった。桜組のときは幼稚園に行くのが楽しみだった。
その上はゆり組というクラスで先生はまた若い女性だったけど、話がつまらなくて、ときどきヒスのように怒ったのであまり好きではなかった。
同じ年の女の子にはあまり興味がなく、特定の気に入らない子をいじめたりした。そのころは本気でいじめていたので、今でもときどきそのことを思い出して深く後悔している。相手が誰だったかを覚えていないので、中学生のころから高校を卒業するまで、ちょっと暗めの女の子を見るたびに、もしやあの子では、といつも気になっていた。たしか名前と顔がおばあさんのようで、それが気に入らなかったんだと思う。
そのころ、男の子の友だちはいなかった。男の子と遊んだ記憶がまったくない。遊ぶときは、ままごとだった。
こんな感じで小学校2年生まで続く。同年代の女の子に対する軽い初恋といっていいものは小学校2年生のときに体験した。それが人を好きになるということにおいて、若干、ステージがあがったときだったと思う。相手の名前も顔も性格もよく覚えているし、その後、同じクラスに何度かなって親しく話もした。詳しく思い出そうとすればいろいろ出てきそう。1つ何度も思い出すエピソードがあるので、それを書きたいけれど、とりあえずここでやめる。

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2007年8月 4日 (土)

幸せとデフォルメ

ときどき、ぼくは他の人と何か根本的に感じ方が違うのではないかと思うことがある。特にいわゆる大人の中に混じっていると、いたたまれなくなることがある。話がつまらない、というのと、ぼくの話に誰も乗ってこない、というのと両方ある。ぼくは大人の仲間入りをしたいという気持ちも強いから、なんとか話題をあわせようとするのだが、いいところまでいくとするりと話題が変わっていく。
おそらく、本当は誰も何も話したくない、人の意見など聞く必要がない。おかしくもないのに笑い、どうでもいいのに義憤を示し、数時間前にテレビで誰かが発言していたことを思い出してそれをなぞって自分の意見としていう(想像。だってそうでもないと、あんなに同じ意見ばかりにはなりっこないと思う)。その繰り返しなのではないかとも思う。

周囲が大人っぽい世間話をしているとき、ぼくはとても孤独だ。いたたまれない。眠くなる。

21世紀になる前の年から去年まで、甲府にある短大のパンフレットを作っていた。写真とデザイン以外はすべてぼくの仕事。資金の流れは孫受け仕事だが、実質的に全体のディレクション兼コピー、そして細々としたマネジメントという仕事。こういう、小さな広告制作会社のような仕事というのは、まさしく高校生のときに、ぼんやりとそんな軽めの仕事がいいと想像していた通りの仕事だ。なんとちっちゃな夢をもったものかと思うけれど、そんなものに閉じ込められたまま、この年代まで生き延びてしまった。もっとも、ぼくはこれをまだ初期の段階だと考えている。年齢的につじつまがあわないような気もするが、こうした仕事はこれからが本格的な旬なのだ。そういう意味では、適切な分野に入ってきたとも思う。
学生時代は、アバンギャルドで飯が食えればいいと思っていたが、それはきわめて難しく、うまくいかなかった。だから、その逆、群集の視点の底に埋もれている、本人たちも気づかない志向を見出してそれを飯の種にするような方向でやってきた。ところが、最近、その2つがつながってきたような。
砂場で作った砂の山にあっち側とこっち側から穴を掘ってトンネルにするのが結構好きだった。開通するときに手を突っ込み、トンネルの中で握手する楽しさ。
そんな感じ。これについてはまたたびたび。

学校案内なんてずっと同じものでもよさそうだけれど、毎年、1つキャッチを作り、コンセプトを決めて、構成を微妙に変える。実際、年々、状況は変化していて、5年間のあいだに短大の状況が大きく変わっていくのを目の当たりに見た。そして、若い人たちは結構まじめでよく勉強している、ということも。とても賢く、性格のいい学生や、ただかわいいだけの学生(ほとんどの学生が女性)、いろいろいる。

で、その打ち合わせに行くと、クライアントの直接のトップが友だちがいないのか世間話が好きで、取材などが終わると2,3時間、3,4人でえんえんと情報交換のような世間話のような話を続ける。政治の話やコンピュータの話になるとぼくも突っ込むのだが、一定レベルまで行くと話をそらすようになる。そこから先は詳しくない、ということだろうと思って話をやめるが、結局は何でもいいからしゃべっていたいだけという印象だった。
それで1時間も話すとぼくはいつも睡魔に襲われ、ときにはイビキをかくこともあったらしい。そういう会話はスパイダーソリテアよりも虚しい。

これ、なんで書き始めたんだっけ。

あ、そうそう。デフォルメね。
幸せのイメージは外に出すときにデフォルメされる。デフォルメされた結果が似ていると互いに惹きあうらしい。でも、同じだと思ってはしゃいでいると、突然、まったく違うことに気づいたりする。調べてみると、あちこち食い違う。これまでを振り返るとそういうケースのほうが多い。それ以外はいまだに不明のまま。
その、デフォルメが似ていてじつはやっぱり違っていて混乱する、というのは基本的には不幸せの部類になる。しかし、その中でも致命的だったり回復可能だったり。回復するのは幸せなのか、致命的だったのは不幸せなのか、と考えていくとこれがわからない。

抽象的に書いているとわけがわからない。具体的に書いていくことにする、かもしれない。

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螺旋

螺旋はその形状に進行方向と、なすべき動作が埋め込まれている。
球体は動きについては語らない。円盤は周囲への広がりだけを示す。棒はその長さが特定の方向を示す。螺旋が付くと、長さの方向に対して右回転したときと左回転したときの運動が予言されたことになる。

時間等曲率漏斗やタイム・スライスは、シートになった断面は静止しているが明らかに裏表があり、それが螺旋のように進行方向と動きを内に含んでいる。目指す認識は、漏斗全体を一時に把握し、すべてのタイム・スライスを同時に平等に知覚することなのだが、実際にはそんなことはできない。曼荼羅はまさに絵にかいたものであって、あのように部分が系として独立しながらその集合がまた1つの系を形成している、というような把握は生身で時間によって突き動かされている身にはかなり無理がある。

逆にそうした特性を螺旋という物理的な形で表現しておくと、その螺旋がなくなるように努力すればいいのでわかりやすい。

それで時間等曲率漏斗には螺旋模様がついているし、タイム・スライスはエピソードごとに螺旋状にバインドされている。

以上がこの世界における自分の人生の個人的な物理イメージ。そう見ることで、いくつかのことを気にしなくなった。

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2007年8月 2日 (木)

まぼろぼとぷにょ

ペットを複数飼っていてもブログでは一度に1匹しかつけられないらしい。
使い方が複雑怪奇でアドベンチャーゲームのようだ。しばらく謎の状態が続きそう。
「まぼろぼ」と「ぷにょ」という2匹のペットはそれぞれ性格が違うようだが、言葉のボキャブラリーは共通しているらしい。気分で入れ替えて使っていこう。いったん、ぐずぐずしているまぼろぼに交替してみた。漢語を1つ覚えたらしいが、それが何だったか忘れた。

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